燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」

どうもお久しぶりです。ここ最近W杯にご執心でして、それ以外のことに手をつかないどころか睡眠も不規則な状況で・・・その為に触れようとしてるものに触れられなくて書けませんでした。因みにサッカーに関しては戦術畑の人間ではなく一観戦者なので、詳しいこれがこうとか言えないので、記事にする気がほぼほぼないです。このチームがこうしたいからこうしてるみたいなのきっぱり当てられたらかっこいいんですけどね。

本題に移りますと、そんな状況下で読んでたのが、燃え殻さんの

「ボクたちはみんな大人になれなかった」です。この本は、自分が勝手にメンターだと思っている方が言っていた本で前々から読もうとしてたのが、巡り巡って今読みました。自分は小説とかの読み物を一気に読みながら、頭の中で全部整理しながら読みたいのですが、今回は期間的には2週間弱かかって、しかも「一日読んだら、三日空いてみたいな・・・」読み方をしたせいで、結構何言ってるのかわかってないところがあります。俗に言うかは知りませんが、この本は物語に入り切れずに読んでます(特に最後の方)。今回陳腐なことしか書けない。以下ネタバレ少々含みます。

 

 

 

 

 

主人公である僕はもう中年になってしまったテレビ業界の裏方の方(その方では結構な有名人)で、僕が唯一‘‘好き‘‘になったかおりとの思いがけない再会から物語が始まっていって、かおりとの劇的な出会いから、東京という‘‘陽キャラ‘‘で溢れかえって、居場所がなかった僕が居場所を見つけて、そこから、同時期に別の形で出会う場所(関口等)によって東京という街に染まって、彼が染まっていく場所というか業界が特異な所だから、特異な形でありながらも、一般化してく。悪く言えば、彼は東京の中での群衆の中の一人通行人Aに成り下がってしまった。そこに至るまでの過程を、かおり・関口等への回想で描き、最後は幻想の中に生きているかおりとの別れで終わる。内容の細微が全然思い出せないので、大まかな枠組みだけにさせてください。

別の切り口として、この物語になんで入れなかったのか考えると、タイトルにある大人をどういう風に捉えているかだと思っていて、自分はこの本の中で大人になるということは一般化だと捉えていて、その根拠として、僕が付き合っている頃あんなにいかしていたと思っているかおりがすごいダサい夫婦写真をあげていることをダサいと思いながら、羨望しているところなんですけど、僕はもう一般化していると思うんですよ。なんなら、かおりと付き合っている頃の中盤ぐらいから、一般化してると思うんですよ。それなのに何故大人になれていないか分からない。もう一つは、基本軸として先述のような‘‘陽キャラ‘‘とサブカル陰キャラの二項対立で勝ち組と負け組のような書き方だと思ったんですが、負け組の人たちも十分勝ってませんか?世界=かおりって世界があるだけましだろ自分には世界がないのだから。と思ってしまった次第であります。最後にスーさんはなんで出てきたのかよくわかってないんだよね。もう一回読んで整理したい作品でした。整理出来たら、評価が一変しているかも。

勝手にふるえてろ

昨日見ました。映画公開前(去年の夏ぐらい)からずっと見たくてですね。念願叶ってようやく見れました。最近少女漫画原作の映画が等によくありがちなただのラブコメ映画じゃないですね。マイノリティーがマジョリティーがふんぞり返ってる世の中で生きていけるのか生きていてもいいのかいうようなことを描いてる映画です。松岡茉優さんの演技力(細かいことはわからんけどもさ)にまさしく脱帽と共に綿矢りささん原作の秀逸さ素晴らしいものがあると思います。またさ、松岡茉優さんがかわいいのなんのなんの特に過去妄想時眼鏡陰キャラ姿が良かったです。以下ネタバレです。見たくない方見ないでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主人公のヨシカ(松岡茉優)は、冴えないOLで実際に変人でありながらも俗世間へ迎合できないと決めつけて、自分のことを特別視しているんですよ。

それで彼女が生きている場所は、彼女の脳内で繰り広げられる妄想世界(冒頭のシーンで二より一を選ぶ)でその象徴こそ‘‘第一の彼氏‘‘一(北村匠海)であって最初の場面での現実は‘‘第二の彼氏‘‘である(後になる)二(渡辺大知)なんですよね。冒頭の会社内の飲み会において二と会話することで(この時かわいいと言われる)、ヨシカは現実(俗世間)に対して迎合しに行く(例:一に話しかけに行く)。この後にヨシカは二との会話をしていくことで現実との会話をして、妄想への執着が和らいでいくのですが、同窓会において、結局現実(俗世間)に迎合などできておらず(実は二も非俗世間の人)、東京での同窓会で一の告白の数々で視聴者にヨシカと俗世間との乖離を示し、一の最後のセリフによってヨシカも現実には生きていなかったことに気付く。それで、現実に対して何も抱かなくなったヨシカに対して二は寄り添いヨシカは現実へと引き戻される(二も俗世間には生きてない人)。この時完全に空想との離別をはかるんですが、くるみ(石橋杏奈)から二への密告がヨシカに伝わり、また彼女は現実への諦めをするんですが、最初の状態と違うのがこの時現実世界に対しての憧れが一切なくなってる事なんですよね。二との関係もなくなり(俗世間との真の乖離)また空想に逃げようとするも、もう一はいなくなっており、ヨシカは虚無に苛まれる。色々なことを経て虚無になったことで、ヨシカの中に未練が残り、くるみの電話で二(現実)を選択しヨシカの家の前で二と会話を行うことで、初めて二(現実)とお互いの気持ちをぶつけ合う。結果ヨシカが二のことを初めて名前で呼ぶことで、現実をしっかり直視してラスト二と結ばれ部屋で愛し合う。というような感じでしたね。結局は、ヨシカ(非俗世間)は俗世間には迎合できなかったけども、マイノリティー(非俗世間)は俗世間の中で生きていてもいいじゃないかいうマイノリティーに寄り添うような映画だと思いました。

因みにタイトルの意味は最後赤い付箋が落ちて徐々に濡れていくんですが、その時に高まっていく心の鼓動のことを指しているのではないか?かという予想です。

とっても面白くて、映画の場面場面の情景に一喜一憂させられて、映画の中に入っているかのような感じでありました。この記事の冒頭にも書いたように松岡茉優さんの演技すごいねぇ。もっと以前から知ってはいたものも、ちはやふるを見て、この女優さんすげぇ人だなとは思ったけどもまさしく圧巻でしたよ。兎にも角にも自覚しているしてないはともかく人生生き辛くて仕方ないマイノリティーも頑張って生きていこうな!自分も頑張って生きてる!

 

furuetero-movie.com

ひゃくまるさん

二回目です。どのペースで書いていこうか分からないです…

早速本題に移りますが、ひゃくまるさんとはひゃくまるさんとの出会いは、矢作・佐倉のちょっとお時間よろしいですか(通称:ちょろい)という文化放送超!A&G+で以前放送されていた超!A&G+内においても一時代を築いたと言っても過言ではない番組ででして、ひゃくまるさんはこの番組のリスナーさんのお一人なのですが、投稿するメールの内容が面白いのなんのなんのべらぼうに面白いんですよ。エピソードがもうすごい。とりあえず聞いてみてください。

www.nicovideo.jp

ちなみに他の方のメールももうそれはそれは面白い(というか、矢作さん、佐倉さんがまず面白い)ので、上の動画のマイリスト見てみてください。

実は、ひゃくまるさん色々とネット上で活動されている方で、pixivに投稿されていたり、ニコ生、YouTubeで配信されていて、個人的にはYouTubeで語られるネタがとっても好きでして、ひゃくまるさん自身のネタは勿論のこと御本人自ら言われているようにひゃくまるさんが真面目に見えてくる位の頭のおかしい人が周りにいすぎて、もうひゃくまるさんはそういう星の下に生まれたとしか言いようがない。ひゃくまるさんは面白い人以上の存在。最早コンテンツなんですよ!YouTubeの配信はこちらになります。


普段使いのひゃくまる雑談 第一回目

ひゃくまるさん専攻はしていらっしゃらないようなのですが、心理学であったり、小説や漫画等の娯楽への造詣も深くて、いつも楽しくツイートを拝見させていただいております。

ひゃくまるさんのTwitterもぜひ見てみてください。

twitter.com

 

 

 

 

 

 

今回御本人に許可なくブログの題材としてしまって申し訳ありません。こんなの許せん!!!等ございましたら、記事を削除いたしますので、ブログのコメントでも、Twitterでも、構いませんので大変申し訳ございませんが、ご連絡ください。お願い致します。

 

 

さちこ『僕は兄になりたかった 』

友人にやってみればと言われて、基本的にいつするかなーでしない自分ですが、この作品がTwitterで推されてて、それで読んでから猛烈に書きたくなってこのブログ始めました。

さちこさんの「僕は兄になりたかった」です。

基本的なプロフィールは下の方に貼ってある作品のやつで見てください。

大いにネタバレみたいなことするから、嫌な人は一番下の作品を読んでから読んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

登場人物は二人で、清水稜平(弟)と清水泰平(兄)の兄弟

弟の稜平は文才の持ち主ながらにして、すごいメンタルが不安定で自己評価が著し低い典型的物書きの人。それで、天才あるあるの一点突破型故人に関心を持ってもらえなかった人(例:親に勘当される所)。

兄の泰平はすごい気前のいい‘‘何者‘‘にもなれなかった凡人。恐らく、人に関心を持ってもらえなかった人だと思う(例:序盤の木村さん)。

この作品って持たざる者同士が互いに羨望しあって、動いた結果ハッピーエンドになるお話で、

弟の場合は、性格や能力に難あり(自己評価の著しく低いところ等)のせいで他人に正当に評価してもらえなかったんですよ。しかし、兄の泰平だけが、自分の優れているところである文才を認め、彼を養い続けていくんですよね。そのことに対して稜平は命の恩人でかつ‘‘自分の世界‘‘として感謝すると共に彼の人間らしさに羨望を抱きながら、完璧に依存してるんですね。

一方兄の場合は、気前が良くて、普通には世界に居れるんだけど、普通が故に飛びぬけた何かがないから魅力がなく、世間的にはうまくいっていても、好きな人には見向きもされないんですよね。よって、自分がただの凡人であり、弟はすごく恵まれたものを持っていると幼少期に気づいて以来その才能に羨望しつつ、こいつはすごいやつってのを思い続けてる。俺には才能はないけど、こいつに才能があることを知っているから(ドヤ)で自尊心保ってるのかなとか勝手に思ってた。

それが、兄のお節介によって世界が激変していき、弟はアイデンティティの確立と‘‘世界‘‘の拡大、兄は好きな人と恋仲になれたことと弟がやっぱりすごいやつだったという自己の証明。双方ともに得るものもありながら、兄は弟を思う気持ち弟は‘‘世界‘‘の全てであった兄とお互いに失うものもあって、得るものを可視化できた兄と得たものが可視化できなかった(しなかった)弟で、弟が絶望し崩壊して、転が発生するんですけど、それによって兄が不可視であった自分が失ったものに気付いて、兄が先導して、結果弟は失ったものと得たものが表裏一体の関係であるので不可視だった得たものに気付く。

その結果兄は恋人、弟は自身の才能を生かす場所と元々の生活では得られなかったものを手に入れハッピーエンドとなる訳ですが、

まず、兄弟愛の尊さですよ。お兄ちゃん滅茶苦茶いい人だし、世界から関心を持たれない弟に対して唯一関心を持ち続けて、二度も弟のことを引き揚げているんですよ。弟は自分のことをダメダメ言って悲観してるのにお兄ちゃんへの感謝の気持ちを抱き続けて生きてるし自分だけでこの作品がができたわけではないのを分かっているからこその作者名かなって思うと、いやーいい作品見たなぁって思うと同時に、僕自身‘‘何者‘‘かになりたくてなれなかった人なので、まーじでお兄ちゃんの気持ちが分かって「それそれそれそれだよそれなんだよ!!!」ってなってましたね。

作者の方がこの先どのような作品を描かれて行くかがとても気になるような作品でした。この方の別の作品読みたいですねぇ。みんな特に僕みたいに‘‘何者‘‘になれなかった人ぜひ読んでぇぇぇぇぇ

www.moae.jp

初めまして

タイトル通り初めまして。そうではない人もこんにちわ。

よくブログとかにある初めてきた人はこれを読んでね的なやつです。読むも読まんの自由です。めんどい人は最後だけ読むとつかめるよ。

初めに、当ブログは基本的に俗に言われる‘‘まとめサイト‘‘に似通った物と捉えていただいて結構です。

しかし、従来のまとめサイトのようなものと一線を画したいと思っていて、というのも二週間ほど前に、従来のまとめサイトは既存(新聞、テレビ等)のメディア媒体と同じように、ネット世界であったり実世界において何か盛り上がりを見せているものに対して後追いでそれを拡散させる媒体だと思うんです。

しかし、それでは情報過多の今日では世の中に溢れる面白いことがこぼれてしまう。滅茶苦茶に面白いことが世の中の陽の目を浴びることなく廃れて失われていく。

それはとっても勿体無いことだなと感じて、それであれば、

「自分が面白いと思うことは世界中の誰かもきっと面白いと思ってくれるはず。」

という自惚れから自分を含めた書き手(今後増えるのかその前にこれすらが廃れるのか)が面白いと思った物・事・人ありとあらゆるものを世の中で流行っている・最早時代遅れ・微塵も陽の目を浴びていない関係なく、書き連ねて、受動的な情報ではなく能動的に情報を掘れる誰か不特定多数(書き手)が面白いことをまとめるサイトがあれば面白いのにな思いつき、作りました。

 

 

こんなに長いの読む気がねえ!!!三行にまとめろ!!!と言われれば、

Twitterでよくある

コンテンツをおすすめして来る文

ブログにしてみた。

 

最後に、深夜の酒の席でこれについてオタク特有の饒舌で語っていたら、

「面白そうだから、作ってみてよ」と言っていた友人よ、本当に作ってやったぞ。だから、君も何か書いてくれ。